サルトルとカイヨワ  海老坂武

 

 「サルトルとカイヨワとの関係は?」と尋ねられても、答えはすぐには出てこない。カイヨワがサルトルをどう考えていたか、これは私には明らかにできない。サルトルの側から見るなら、あの厖大な著作群の中でカイヨワという文字を見いだせるのは、私の知るかぎり一箇所だけなのだ。

 

 個人的な接触はどうか。二人は同じパリの高等師範に学んでいるが、サルトルは8歳年上であり、卒業後はルアーヴル、ランと地方都市の教師をしている。二人が出会う可能性は少なかった。いずれにせよその痕跡は残されていない。
 共通項を語るとすればニーチェであろう。1920年代、30年代のフランスの知的風土にニーチェは深く浸透している。彼に対して二人はどう向き合ったか。しかしこれは大きなテーマであり、サルトルとカイヨワだけを比較するというわけにはいかぬ。
 話を元に戻すと、サルトルがカイヨワの名を記したのは、1940年2月、動員されて前線にいながら戦争のない日々を送っていた頃の日記においてである。

 

 

「カストール(ボーヴォワール)と私は、2年前に、大都会の神話に関するカイヨワの論文を巡って、この点を長々と論じ合った」(『奇妙な戦争―戦中日記』)

 

 

 二人は、パリは存在するのかそれとも神話にすぎないのか、ということを論じ合ったらしい。2年前、1938年と言えばカイヨワはまだ25歳、その青年の論文を読んだ理由は推察できる。二人ともパリの街を歩きまわることが大好きで、ほとんど情熱の一つをなしていたからだ。カイヨワ論文が何であったかは不明だが、神話と神秘に満ち満ちているパリを、アラゴンの『パリの農夫』とは違ったやり方で語っていたのではないか。


 しかし、この程度の接点で「サルトルとカイヨワ」を語るのは難しい。そう思っていた矢先、『ポンス・ピラト』に出会ったのである。
 一読、私は驚いた。二人を結びつける不思議な絆を発見したのだ。短篇の「ポンス・ピラト」とは何か。一言で言えば、キリストを十字架の刑から救い出した男の話である。史実に反して(史実自体にも諸説あるが)カイヨワは、キリストを釈放した男としてピラトを設定している。


 他方サルトルには『バリオナ』(未訳)という戯曲がある。生まれたばかりのキリストをローマの追っ手から救い出そうとする男の話である。
 ピラトは部下にキリストを鞭打たせる。バリオナは馬小舎に忍び込む。ともにいったんは殺害を考えるが、最後にキリストの命を救う側にまわるのだ。なんとも奇妙な一致だ。


 もちろん違いはある。ピラトは単なる役人ではない。教養ある知識人ということになっている。ローマ本国や地方長官、ユダヤ社会の長老たちや一般民衆、そして自分自身の部下、さまざまな圧力の交点に立ちながら、彼は思索する。判断する。
 他方、バリオナはユダヤの寒村の村長である。ローマからの人頭税の課税に苦しんでいる。これ以上苦しまないために、村人たちに子供を産むことを禁ずる。やがてこの村は絶滅するだろう……バリオナは絶望の哲学を説く。しかしそのさなかに妻が身籠ったことを知り動揺する。そしてメシア誕生の報。妻も村人たちも皆ベツレヘムへ向かい、バリオナはひとり残される。しかし、メシアなるものが贋物であることを確信して、皆の先まわりをしてキリスト殺害を思い立つのだ。


 ドラマの核心はただ一つ、殺すか殺さぬかの決断だ。選択だ。その決断には両者とも、政治的判断と個人的動機がからんでいる。しかも、二人とも、キリストがメシアであるとは、実は信じていない。しかも、二人を待ち構えているのは悲劇である……

 

 おそらくピラトのうちに、ユネスコという諸権力が交差する場の高級官僚だったカイヨワの自己凝視を見るべきなのだろう。またバリオナのうちに、この戯曲を1940年、捕虜収容所の中で書いたサルトルの、当時の絶望と希望を読みとるべきなのだろう。それを、戦後における二人の、相反する政治的立場(すなわちサルトルは中立ヨーロッパの社会主義構想から、次第に共産主義陣営に近づいたのに対し、カイヨワはレイモン・アロンやクロード・モーリアックらの反共産主義にシフトした知識人の仲間に加わった)に関連させることも可能かもしれない。

 

(2013年8月記)

 

 

(えびさか・たけし)
著書:『加藤周一』(岩波新書、2013)/「戦後文学は生きている』(講談社現代新書、2012)/『祖国より一人の友を』(岩波書店、2007)など。
訳書:『自由への道』(サルトル著、共訳、岩波文庫、2009ー11)/『革命の社会学』(フランツ・ファノン著、共訳、みすず書房、2008)/『狂気の愛』(ブルトン著、光文社古典新訳文庫、2008)など。

 

 

*【編集部註】サルトルとボーヴォワールが論じたという「大都会の神話に関するカイヨワの論文」は、『神話と人間』(久米博訳、せりか書房)に所収。