『吉田知子選集Ⅲ』「そら」への五題 によせられた回答

 

【問1】 

・251頁17行~「台所の戸棚の横の桟はオバケだ。ふだんはなんでもないのに、家に誰もいないとオバケになる。戸棚の横で白いものが動く」

「台所の戸棚の横の桟はふだんはなんでもないのに家に誰もいないと活動的になる」

 

・243頁14行~「なにかが、ヨネコのいない間にその中へもぐりこんでヨネコを待っている。噛みつこうとして。黒い虫。ワッと歯を剥きだしている。机の中から手を出して調べてみる。大丈夫。痛くない」

「ヨネコは勉強に気乗りしないときはいつもそうだが机の中で手遊びをしている。右手で左手にかみついた。少しやりすぎて本当に食べられたかと思った」

 

・258頁17行~「雨がやんで、よその家のつる薔薇の垣根に薄緑のスリ硝子色のハトが、ちらちら舞っている。それを手をお椀の形に伏せてつかまえようとする。なかなかつかまらない。ナカヤマミキコは、ひとつつかまえる。手を開くと、ハトは、よれよれに潰れている」

「雨がやんで、家から外に出たら子供がうちの前にいるので何をしているのか覗いてみると、どうやらうちのバラの花びらが舞い落ちていくのを手で受け止めているみたいだった。近づいてよく見ると違った。あれは水に濡れて萎びた蛾だった」

(Iさん)

 

【問2】 

・その年齢によるもので、誰にでもあるけど、おかあさんやヒデ叔母さんは年齢にも関わらずまだ世界観を保持している。そのことがまたヨネコを世界観から脱け出せなくしている。

(Iさん)

 

【問3】 

・ヨネコは「しま」にいるつもりになった辺りから「しま」に対する詮索の度合いが高まっていく。「しま」って、なんのことか。をヒデ叔母さんは何も教えてくれないけれどヨネコにだってベラジ様というヒミツがある。ベラジ様を隠(ヒミツに)したことから、小さな獣が現れてベラジの世界からヨネコを追放してしまう。

(Iさん)

 

【問4】 

 四十八億字はとても書けない。そこまで書かなくたっていいはずだ。それなら私は四千八百くらいにしておこうと思う。四千八百でもまあまあというかそれなりに長い。書けば何かは見つかるだろう。そんな気がする。週に一回のダンスレッスンにこれから出かけなければならないので、続きは明日の朝。「しま」のことを書く。

 

 

 十五時間後の朝。私は「しま」のことを考えたり忘れたりしながらすごした。私は「しま」という言葉をこねくり回して様々な形にして遊んだ。しま。散々こねくり回した挙句に放置してしまった。まるで砂場で作った無目的なトンネルを無目的なまま置いていったように。

 なんだかんだ言葉が小説に引っ張られている気がする。それは何となく危ないと思う。私はせっかく四千八百字書くと決めたのだからそれなりの決意をもって一字一句を費やしたい。とはいえ四千字も書くのだからこうした脱線でもしない限り、「しま」だけでシンプルに埋め尽くすことは不可能な気がする。とうに四百字に突入している。早く言いきりたい。人の時間を無駄に割きたくない。

 私は『そら』を一日で読んだ。比較的に速く読んだ気がする。少し速すぎたかもしれない。その前にまだ半分くらい残っていた『ユエビ川』を途中から読んだ。そこからの『ユエビ川』が面白すぎて急いで次ぎの『そら』が読みたく思った。もう夕方だった。私は夜にダンスのレッスンがあるし、いろいろと、家事も待ち構えていた。スマホのせいで無駄な時間の浪費もあった。『ユエビ川』の「金色螺鈿」というのが何か知らなくて気になって調べたけれどよくわからなかった。それからじゃが芋が二つ余っていたのを思い出して久しぶりにポテトサラダにしてみようとポテトサラダの作り方を2パターン調べた。男爵とメークインの2パターンだった。それは今、特別しなくてもよいことだった。今、特別しなくてもよいことをするのは、おそらく、私だけじゃない。いろんな人が、自分の、今、特別しなくてもよいことを避けて通れないのだ。私は「しま」のことを考えている。それ以外、今、特別しなくてもよい。洗濯機がベランダで回っている。あと十五分もすれば中身を取り込みにいかなければならない。

「しま」のことを考えていると、小説の題が『そら』というのを忘れてしまう。「そら」というフレーズも『そら』の中には出てくる。それも一か所だけ。覚えている限りはそこだけである。かえって「しま」は十回くらい出る。読んでいてもやはりそこに印象がまとわりついて、しまいには「そら」について何も考えていなくなっていた。

 いきなり「しま」にいるのかもしれない。と書かれているので、あそこが「しま」なのかもしれないが、私はあそこに書かれていることを、ここでお伝えしたいとは思わないし、半分忘れかかっているのを、あえて読み返してみたいとも思わない。その抵抗がわずかにある。それをしたら、もっと余計にわからなくなるのが、喧嘩中の友達に今はあえて近づかない方がいいとわかる時のようにしてわかる。居ようとして居られるような「しま」ではないのだ。でもそう言い切ってしまえるほどに崇高でも遠い場所でもない気がする。普段、人は鳥を当たり前のように眺めるけど、鳥が高いところから見下ろす眺めは人間がどんなに想像を膨らましても足りないくらいの絶景だろう。その点からすれば私らはもっと鳥を尊敬したっていいはずなのに。——洗濯機が止まった。言いたいことがまとまらない。

 

 私は「しま」のことを考えているとどことなく気分が楽に感じているかもしれない。と洗濯物を干しながら思った。私はキッチンマットとバスマットを干した。昨日そこにコーヒー豆の挽いたやつを盛大にぶちまけたのだ。コーヒーを豆から入れるようになって約一年、そんなことが起きたのは初めてで、私はショックだった。これからたぶん、コーヒーをやめない限り、生涯にわたって、コーヒー豆はこぼさないように細心の注意を払ってすごすことになる。「そんな大げさな」と思われるかもしれないが実は他にもこれと似た事例があり、完全に「しま」とは話題が逸れるが、まあ四千八百字あるし、まだ三千くらいスペースがあるので〈卵〉の話くらいしたっていいと思う。私は〈卵〉をしょっちゅう割っていた。自転車のかごに、〈卵〉を入れると、本当にしょっちゅう〈卵〉を割るので、私は、〈卵〉を割らないための専用ケースが売られたらいいのにと考えたほどだ。バナナの専用ケースが売られているぐらいなのだからと思って。とにかく家に帰って冷蔵庫に入れる時に〈卵〉が割れているとショックで、辛かった。だからもう〈卵〉は絶対に割らないように細心の注意で運んでいる。空港でフラジャイルのシールがされた荷物のように。「割れ物注意」よりも英語の「フラジャイル」の方が何となく大切にしようと思えるのはあくまで個人的な印象だろうか。そう。この「フラジャイル」にしているのが、昨日からの私のコーヒー豆に対する態度なのだ。

「しま」は「フラジャイル」だろうか。

 私は「しま」のことを書かなければ自分が「フラジャイル」に思っていることなど取り出さなかったと思う。恣意的に取り付けただけなのだろうか。「違う」とも「そう」とも言えない。そもそも気分が楽になると書いておいて、今は一文一文ひねり出すことに苦心している。座卓でパソコンを打つのでお尻が痛い。やっと二千字。しかし人に読ませる文章をこんな生(ロウ)の状態で手渡すわけにもゆくまい。たぶん今日で書き終わらない気もする。明日に持ち越すだろう。明日できたら、それを明後日読んでみて、嫌ならたぶん、渡さない。削除する。「ゴミ箱」行きだ。

 ああ……。これも「しま」かもしれないと一瞬だけ怯む。私にとっての「フラジャイル」と化しつつあるこの二千字が、明日「ゴミ箱」に入らないための、ないしは「しま」に入らないための……?

 二時間後には私はパソコンを消してこの部屋にはいない。私は出かける。今日は稽古である。四時間くらいある。そしてそれが終わると、人がうちに来る。うちに一泊する。とすると、明日の予定などわからなくなる。人が「うち」に来ていて、私は「しま」のことなんか考えたくないし、あくまでこれは私だけの世界で、私だけのヒミツだ。私は自分だけがそれを楽しみたいとか、そういう独占欲とかではないけれど、とにかく人と「しま」の話はしたくない。それならば、なぜ書いているのか? そんなこと、わからない。わからないが恐らく自分以外で『そら』を読んだようなやつとは友達にはなれない気がする。そんなこといって私はこの小説が嫌いなのか? それはない。それなのに。

 口の中をキムチの味が充満している。私は朝からキムチは食べないが、味見をした。自家製のキムチ。ちょうどいいサイズの壺があるのでそれで自家製キムチをつけるとおいしい。今は六月で暖かいので、発酵も早い。漬けてから三日でもう酸味があった。壺からシワシワ音がした。このシワシワというのは泡の弾ける音で、仕組みはよくわからないけど、自然発泡とでも呼べるものだろう。それが悪いのか良いのかはさておき、キムチの味は悪くないのでそれで良し。にんにくを四欠けすりおろして入れた。白菜一玉(約1キロ)に対しての四欠けなのでまあまあ入っている。〝アミエビ〟を今回は使わなかった。〝アミエビ〟というのはサクラエビみたいなやつで小さいエビの塩漬けが韓国食品店などには販売されているのだがそれをキムチに足すとおいしい。どころか本場のキムチにはたぶんこれがほとんど醍醐味といっていいくらい入っている。この〝アミエビ〟が。でも〝アミエビ〟をあえて使わないというのは、いわゆる「キムチ」という味に抵抗したかったのかもしれない。味見したキムチは、やっぱり少し、コクが足りない。でもご近所さんなら十分これで通用する。これで喜ばせられる味だ。明日、「うち」に来る人にも私はキムチをお土産に持たせるだろう。そのためのパックをできれば百均で買わなければならない。百均で済むのならすべて百均でいいという考え。でも百均で済ませられないこともままある。今、いちばんの悩みは写真立てで、なるべく百均でない写真立てで飾りたい写真が三枚もたまっている。それなのに百均にある写真立てがどこのよりデザインがシンプルで無駄がなく、あれが欲しい。

 稽古の前に私は口の中のキムチの臭いをかき消すのも兼ねて昼食を摂ろうと思う。家で食べるか、向こうで外食するか。少し悩む。家は経済的だし楽だが、楽しみがない。たまには外食したい気持もある。ただし外食はきまって量が多い。だからたいがいパン屋でパンを買うが、パンを買ってからパンを食べる場所でいつも困るのを思い出す。いつも自転車の上でせわしなくパンをかじっている印象だ。公園に座って食べれば落ち着いて食べられる気もするがなぜだろう私は公園で食べる食事が嫌いだというのはテーブルが無いためであるのにたった今気づいた。いつもベンチに、横並びで、食べにくそうに食べなければならない。窮屈で仕方ない。文句しか浮かんでこないということはやはり今日も家で食べた方が良いのだと思う。今日は『じゃりン子チエ』の発売日。『じゃりン子チエ』ならとっくのとうに連載を終了しているわけだが私のいっているのは新装版で、文庫で改めて出版されているやつだ。「文庫」って何だ。なんで「まんが」で出さないんだ。まんがのくせに。

 

 

「しま」のことは一言も話さずに私は「うち」に来た人と別れた。駅まで見送った。それから書こうと昨夜からずっと考えていた。「どのように書こうか?」という考えがいくつも沸いた。アイデアというのか? いわゆるオチか? 私は生まれも育ちも関西だが、関西人はとにかくオチにうるさい。オチのない話をするとけっこう真面目に責められる。「……で、オチは?」と最後に必ず訊かれる。

「しま」の話にオチなどない。おちおち話しだすと大変なことになる。私はとめどなくなるだろう。ただでさえ、わかっているフリで話しているのだ。ここまで。ずーっとそう。何となく。ゼスチャーにすぎない。私は「うち」に来た人のことをまた考えている。「うち」の「しま」に来た人は私の宣言した通りにキムチをお土産に持って帰った。「うち」の「しま」の冷蔵庫の中身は大量のキムチで敷き詰められてゴオオオと唸るような音を立てている。むし暑い。週末は雨だとニュースで聞いた。たぶん、この雨が明ける頃にはもっと暑い。今年もクーラーに頼りっきりになるだろう。クーラーの「掃除」は今のうちに済ましておくと混まないでスムーズだと稽古場で聞いた。夏になってからでは遅い、という。クーラーの「掃除」は二年に一回程度はやるべきだという(正確には、業者のセリフ)。私はこの部屋に住んで三年目になるけどクーラーの「掃除」はしたことがない。聞いたところ、「掃除」をしないクーラーの中身はとんでもなく真っ黒らしい。

夏が来る前にやっておくべきだろうか?

 わからない。

 とりあえずこれで「しま」のことについて書くのは最後だ。

どうしよう。

 ——残り六百字くらい。

 私はこの文章を残すだろうか? 消すだろうか?

 今のところは残すと思う。たぶん消さない。読み直さないとわからない。今、読み直すと破綻しそうだから一旦書ききってしまうとする。私はたぶん、今読み直すと、もっと説明しそうな気がする。説明しなくてもよいところまで言ってしまいそうだ。言ってもよくならないところまでいってしまいそうだ。

 ——残り四百字を切る。

 最後に言い残すことはないかと断頭台の前に立たされた囚人のような気持で考えあぐねている。私はこれが本当に言いたいだろうか。死ぬ前に一言あるならいったい誰に何を言うだろう。「しま」のことを考えていただなんて、いったい人に言えるだろうか。死ぬ前に「しま」のことを考えていたら、いったい誰と何処に結びつけるだろうか。言葉がどんどん出にくくなっている。「……で、オチは?」とまた誰かに嗾けられてしまう。オチまで話さないと空想のようにまるで現実でなかったことになる。するとそれを考えていた私はなかったことになる。なかったことになった私は空想と現実の間に取り残される。散々こねくり回した挙句に、私は放棄されて、なかったことにされる。でも、なかったことは、ないんじゃないか? 私はそうした、なかったことしにしてきた数々が、幸せに暮らす「しま」があればいいのになと思う。四千七百字を超えた。四千八百字以内で終わりたいので以上にする。

 

※ 書き終わってから書き直していたら四千八百字を少し超えてしまった。けど、よく思えば四十八億字以内ということなので全然範囲内なのでホッとした。

(Iさん)

 

【問5】 

・0+18=18

・零たす十八は零時十八分のこと。恵ちゃんちの終電の時刻。正解しないと十八円にされてしまう。

(Iさん)